2007年03月04日

『Hairmode』伊島薫(美術出版社)/1994年


Hairmode
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著者名:伊島薫(著)
出版社:美術出版社
出版年:1994.05
ISBN :9784568131123


ファッション写真で知られる伊島薫。
この写真集の「ヘアー」とは、「アンダーヘアー」のこと。様々なコンテンポラリーな衣装を着ても、どれも「アンダーヘアー」は露出している。
この頃、「アンダーヘアー」は社会現象にもなっていた。それを笑い飛ばすようにおしゃれに、アーティスティックに、ユーモアたっぷりに撮っている。それは、アート作品であると同時に、批評となっている。こういった感覚は、本来この国の人たちはもっているはずなのに、とんと見なくなってしまった。
モデルの藤本祐が、なんともいえないアンバランスな魅力をたたえている。彼女の写真集といっていいほどよい。
こういったアートとエロスと批評をかねそなえた写真を見ると、また写真を撮りたくなる。
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2007年02月25日

『田原桂一 光の彫刻』図録(東京都庭園美術館)/2004年


田原桂一 光の彫刻
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著者名:東京都歴史文化財団東京都庭園美術館
     東京都庭園美術館=
出版社:ディーウォーカー
出版年:2005.01
ISBN :9784990229511


田原桂一は、一貫して光を問題にしてきた。それは、『窓』に代表される初期のコントラストの強いモノクロームの写真でさえ、問題にされているのは光だ。
この展覧会は、その一貫さがよくわかる。それは、光の彫刻にまで至った。
だが、はたしてそれは「光の彫刻」だろうか。
田原桂一にとっての光を巡る作品は、あくまで光を定着させることにある。それは、写真の拡張である。彼は一貫して写真を拡張しつづけたといったほうがよいのではないだろうか。だから、僕は彼の初期の『窓』や『ポートレイト』のモノクロ写真に、最も光を感じる。
ここでの「光」は、ジェームズ・タレルの「光」とは全く違う。
僕自身は「光」を演劇的にとらえる。そして、「彫刻」も演劇的にとらえる。僕にとって田原桂一の「光」も「彫刻」も演劇的ではない。それは、やはり写真だと感じる。一方、タレルの「光」は、演劇そのものだ。だから、田原桂一の「光の彫刻」というタイトルに違和感を覚えてしまう。

この図録は、DVD二枚で構成されている。
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2007年02月23日

『pater noster[少年の科学]』鈴木秀ヲ(モール)/1995年


パーテル・ノステル
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著者名:鈴木秀ヲ(著)
     津田基(編集)
出版社:モール
出版年:1995.11
ISBN :9784938628208


鈴木秀ヲさんとは、二年ほど前、一度だけ偶然出会ったことがある。ある写真展の企画を検討する席だったと思う。他にも数人の写真家がおり、批評家の飯沢耕太郎さんも同席していた。
鈴木さんとは、互いにどこかで会ったような気がすると話した記憶がある。
だが、僕は彼の作品を全く知らなかった。そして、最近また偶然彼の写真集を手にとっていた。それがこの『pater noster』。
この写真集は、タイトル通り、まさに[少年の科学]の世界だ。写真の質感がとても立体的で、その立体性は顕微鏡のレンズを仲介させたような印象だ。この手の写真は、幻想文学などによく使われがちだが、鈴木さんの作品は、それらを拒否しているように感じられる。全くそのようなイメージをもたせない。それは、徹底して閉じているということである。だが、不思議にもそこには素朴さがある。
序文で荒又宏氏も書いている。「少年は科学的であり、科学は少年的である。それを並べる素朴さ」と。
見られているにもかかわらず、少年は秘密の作業をつづける。そんな姿がそこにはある。
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2006年02月03日

『植田正治写真集 吹き抜ける風』(求龍堂)/2006年


植田正治写真集:吹き抜ける風



著者名:植田正治
出版社:求龍堂
出版年:2005.12
ISBN :4763006061


植田正治(1913-2000)の写真、特に「砂丘シリーズ」を見ると、いつも吹き出してしまう。もちろん悪意からではなく、頬笑ましくて。
あまりに朴訥な演出。まるで村芝居をはじめるかのようだ。モデルとしての出演者たちも自分たちが何をやるのか理解していないまま舞台に立っている。だからといって、それが嫌なのではなく、何となく照れくさいだけでうれしいことはうれしい。演出家はその意図を明確に伝えることもなく、その光景を頬笑んで見ているだけ。そんな光景を想像してしまう。ましてや、その出演者のなかに一切の演出を排除するリアリズムを提唱した土門拳の姿もあるあるのだから。
その演出の楽しみ方は、フランスのシュルレアリスト達の遊びも彷彿とさせる。

「わたしはアマチュアですから」

そう言って、故郷鳥取から活動の場を出なかった植田正治。
砂丘ばかりでなく、鳥取は植田にとって大きな箱庭だったのだろう。
そのなかで遊ぶ植田の姿には、儚さと同時に柔らかい強さがある。
posted by NIHEI at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 写真/アート
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