現代日本の文学37『武田泰淳』 著者名:武田泰淳(著)
出版社:学研
出版年:1976年19版
この文学全集は、高校に入学したときに一括で買ってもらったもの。
文学アルバムもついていて、ずいぶん世話になった。
そのなかの一冊、「武田泰淳」の集を、久しぶりにとりだしてみる。
アイヌのことを調べていたら、武田泰淳にぶつかった。
武田泰淳には、高校時代『司馬遷』を読んだぐらいの認識しかなかった。
つまり、中国文学者の印象しかなかった。
今回、北海道で教職についていた時期もあることを知った。
映画にもなった『森と湖の祭り』を書いたこと、その主人公のモデルがアイヌの彫刻家砂澤ビッキということも、今回はじめて知った。
残念ながら、『森と湖の祭り』はおさめられていなかったが、『ひかりごけ』は入っていた。
読んでみて、驚愕した。
この不気味さは何だろう。
人を食べるという猟奇的な内容からくる不気味さではない。
その猟奇的な事件を見つめる武田泰淳のまなざしが不気味なのだ。
批判でもない。容認でもない。ただただじっと見つめるそのまなざし。
何かを知っている目。
それは、中国民族、その文化を愛した武田泰淳が、前大戦において中国で何をしたのかというところに由来するのではないかと思われる。
人を殺すことがどんなことであるかを知っている人間のまなざし。
しかも、戦争において人を殺すことを知っている人間のまなざし。
ある境界を踏み越えた、あるいは強制的に踏み越えさせられた人間のまなざし。
そのまなざしが見つめる人間の姿、戦争の姿、それはただならぬものとなる。
同じ戦争体験をしている大岡昇平などでも、何か大きく次元が違うと、恐怖とともに感じさせられる。
『ひかりごけ』は、散文から戯曲へと唐突に移る形式をとっている。
この唐突な実験は、その実験性よりも、そうせざるを得なかった別の要請を感じる。
戯曲の本来もつ危険性まで、むき出しにされた感がある。
そして、そこに浮かびあがってくる人間の姿。
と同時に、それを見つめる武田泰淳のまなざしが不気味に浮かぶ。
そんな不気味なまなざしをより強く感じさせる作品が、この文学全集におさめられている。
『審判』
まさに、ひとりの日本軍人の中国人殺害が描かれている。
前半は、『ひかりごけ』と同じように散文で書かれているが、後半は戯曲ではなく手紙という形態をとっている。その手紙は一度の改行もなく一気に書かれている。
その中国の殺人は、極限状態ではない、する必要のまったくない殺人を扱っている。それがいっそう不気味だ。殺人がリアルというより、やはり武田泰淳の不気味なまなざしがリアルなのだ。
その闇の奥底からのまなざしは、人間を感じない。
大岡昇平はやはり人間の葛藤を描いたといえる。だが、武田泰淳にはその人間的葛藤がない。
そのまなざしは、人間のものではない。
冷徹な文体が、それを支えている。
そのまなざしは、被害者のまなざし、殺される者、今まさに殺されてゆく者のまなざしを知っているまなざしといってもいいかもしれない。
殺す者と、殺される者の恐ろしいまなざしの交換。
武田泰淳は、呪われた作家だ。
読みつづけるしかない。



