2008年04月27日

『青い隕石』勅使川原三郎 荒木経惟 写真(求龍堂)1989年


青い隕石
204.jpg著者名:勅使川原三郎(著)
     荒木経惟(写真)
出版社:求龍堂
出版年:1990.01
ISBN :9784763089212


日本のダンスシーンを語る上で、重要な役割を果たしているひとり、勅使川原三郎。
勅使川原三郎は、個人的には、身体性として、土方巽からはじまる暗黒舞踏の身体を継承していると思っている。土方巽の身体としての美しさは、いうまでもなく白塗りやガニ股などの外的要因にあるのではないし、勅使川原三郎の身体の美しさもその少年的なキャラクターやお洒落な衣装にあるのではない。身体そのもの、そのありよう、そこに美しさがある。
この本には、勅使川原の言葉とデッサン、そして勅使川原を被写体とした荒木経惟の写真で構成されている。
荒木の写真の魅力は、本質的にナイーブなところにある。そのナイブさが勅使川原の身体という被写体を得て、いっそう危うく輝いている。
装丁も美しい。

手元にある勅使川原三郎に関するものは下記の通り。
* 『骨と空気』勅使川原三郎(白水社)1994年

2006年09月10日

総合演劇雑誌『テアトロ 戯曲 告発』1969年9月号


総合演劇雑誌『テアトロ 戯曲 告発』
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出版社:カモミール社
出版年:1969


僕が最も敬愛する劇作家は、『マラー/サド』や『ベトナム討論』で知られるペーター・ヴァイスである。
そのなかでも、『追究〜アウシュヴィッツの歌』は、記録演劇の最高峰だろう。
この作品は、フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判を巡っている。いまだ歴史化も不可能なアウシュビッツの問題に、果敢に挑んでいる。それは、演劇それ自体の実験がないかぎり成立しない。アウシュビッツが提起した問題は、生命のナンバリングを可能にした、まさにそれまでとは違った人間の生存の問題なのだから。つまり、それまでのドラマツルギーは、まったく通用しない。
直木賞作家高橋治氏による戯曲『告発』。
これは、水俣病を巡る戯曲である。
読みはじめると、先にあげた意味での記録演劇の可能性を感じた。
だが、残念ながらそれは前半までだった。後半は、従来のドラマツルギーによる人間模様としてまとめられてしまった。
歪められてしまった人間の生命を記録するように描き、それに徹すれば新しいものが生まれたかもしれない。
そうはいっても、エンターテイメント、「わかりやすい」ものと称して、大量消費してゆく現在のこの国の貧しく偏狭な演劇状況からすれば、新たな可能性を示すには十分だろう。
演劇とは、人間の等身大のメディアである。その演劇が、世界から、あるいは生命から遠く離れてしまって久しい。
哲学者の鵜飼哲さんは言っていた。
この国は、ショックから麻痺へ、そして思考停止になってしまったと。
いまこそ、思考の方向へ向かわなければならない。
そういう意味でも、この国の演劇は試されている。それは、この国の人間が試されているということを意味している。

2005年12月18日

『炎の人−ゴッホ小伝−』三好十郎(東京白川書院) /1981年


炎の人−ゴッホ小伝−
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著者名:三好十郎
出版社:東京白川書院
出版年:1981.08

役者にとって、ライフワークとなるような戯曲との出会いは無上の喜びらしい。
そんなことも意識したので、滝沢修演じるゴッホは観ていないのだが、戯曲だけでもと思い、読んでみた。
退屈きわまりない。
以前、哲学者の鵜飼哲さんと話したとき、彼が新劇のことを「まったく見込みのない芸術形態」と言っていたことを思い出す。
この古めかしい形式。時代に関係なく、形式まで実験されていないものに、未来まで生きる生命力はない。形式の普遍性など存在しない。
ただ、幕切れはいい。なぜここから始めて、まったく新しい形式を生もうとしなかったのか。
一時期、吉本隆明がずいぶん持ち上げていたので期待したが、まったくの期待はずれだった。
困ったことに、使われるだけの役者という考えることをしない種族(もちろんそうでない役者も少しはいるが)は、権威あるものにはまったく抵抗力がないので、こういうものでもありがたがってしまう。若い役者がそうだから、ほんとうに困ったものだ。演劇はたえず権威に対しての抵抗でなければならないにもかかわらず。頭が悪すぎる。
中原中也も言っています。「頭が悪い者に、愛を理解できるとは信じられない」と。
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