2008年08月14日

現代日本の文学37『武田泰淳』(学研)/1976年19版


現代日本の文学37『武田泰淳』
229.jpg著者名:武田泰淳(著)
出版社:学研
出版年:1976年19版


この文学全集は、高校に入学したときに一括で買ってもらったもの。
文学アルバムもついていて、ずいぶん世話になった。
そのなかの一冊、「武田泰淳」の集を、久しぶりにとりだしてみる。
アイヌのことを調べていたら、武田泰淳にぶつかった。
武田泰淳には、高校時代『司馬遷』を読んだぐらいの認識しかなかった。
つまり、中国文学者の印象しかなかった。
今回、北海道で教職についていた時期もあることを知った。
映画にもなった『森と湖の祭り』を書いたこと、その主人公のモデルがアイヌの彫刻家砂澤ビッキということも、今回はじめて知った。
残念ながら、『森と湖の祭り』はおさめられていなかったが、『ひかりごけ』は入っていた。
読んでみて、驚愕した。
この不気味さは何だろう。
人を食べるという猟奇的な内容からくる不気味さではない。
その猟奇的な事件を見つめる武田泰淳のまなざしが不気味なのだ。
批判でもない。容認でもない。ただただじっと見つめるそのまなざし。
何かを知っている目。
それは、中国民族、その文化を愛した武田泰淳が、前大戦において中国で何をしたのかというところに由来するのではないかと思われる。
人を殺すことがどんなことであるかを知っている人間のまなざし。
しかも、戦争において人を殺すことを知っている人間のまなざし。
ある境界を踏み越えた、あるいは強制的に踏み越えさせられた人間のまなざし。
そのまなざしが見つめる人間の姿、戦争の姿、それはただならぬものとなる。
同じ戦争体験をしている大岡昇平などでも、何か大きく次元が違うと、恐怖とともに感じさせられる。
『ひかりごけ』は、散文から戯曲へと唐突に移る形式をとっている。
この唐突な実験は、その実験性よりも、そうせざるを得なかった別の要請を感じる。
戯曲の本来もつ危険性まで、むき出しにされた感がある。
そして、そこに浮かびあがってくる人間の姿。
と同時に、それを見つめる武田泰淳のまなざしが不気味に浮かぶ。
そんな不気味なまなざしをより強く感じさせる作品が、この文学全集におさめられている。
『審判』
まさに、ひとりの日本軍人の中国人殺害が描かれている。
前半は、『ひかりごけ』と同じように散文で書かれているが、後半は戯曲ではなく手紙という形態をとっている。その手紙は一度の改行もなく一気に書かれている。
その中国の殺人は、極限状態ではない、する必要のまったくない殺人を扱っている。それがいっそう不気味だ。殺人がリアルというより、やはり武田泰淳の不気味なまなざしがリアルなのだ。
その闇の奥底からのまなざしは、人間を感じない。
大岡昇平はやはり人間の葛藤を描いたといえる。だが、武田泰淳にはその人間的葛藤がない。
そのまなざしは、人間のものではない。
冷徹な文体が、それを支えている。
そのまなざしは、被害者のまなざし、殺される者、今まさに殺されてゆく者のまなざしを知っているまなざしといってもいいかもしれない。
殺す者と、殺される者の恐ろしいまなざしの交換。
武田泰淳は、呪われた作家だ。
読みつづけるしかない。
posted by NIHEI at 10:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学/アジア

2008年08月09日

別冊太陽『先住民 アイヌ民族』(平凡社)/2004年


先住民アイヌ民族
著者名:
出版社:平凡社
出版年:2004.10
ISBN :9784582944778


アイヌ民族の生活、その様式、「ユーカラ」を含む文化、宗教、儀式等々、ヴィジュアル豊かにみせてくれる。
入門書としては、手頃かもしれない。
ただ、ここで示されている自然とともに培ってきた豊かなその文化を、殺しつづけてきた歴史を私たち日本人はもつということを忘れたくない。
それを忘れてしまったとき、加害者であるにもかかわらず、観光客になってしまう。
それを忘れなければ、アイヌの文化の豊かさ、そして私たちが殺し、同時に失ってきたものもよく見えるに違いない。
posted by NIHEI at 21:13| Comment(0) | TrackBack(0) | アイヌ

2008年08月07日

『gen 掛川源一郎が見た戦後北海道』(北海道新聞社)/2004年2刷


gen
著者名:掛川源一郎(著)
出版社:北海道新聞社
出版年:2004.04
ISBN :9784894532939


掛川源一郎もまた、木下清蔵同様、アイヌを撮りつづけた写真家である。
ただ、掛川の場合、その被写体はアイヌだけに限らなかった。
でも、不思議だ。
掛川源一郎の写真を見ていると、不思議な感覚に襲われる。
この感覚は何だろう。
例えば、自然とともに生活する人たちがいる。
例えば、無邪気に遊ぶ子どもたちがいる。
例えば、厳しい山々がある。
どれも素晴らしい。
その素晴らしさは、どれも共通する。
気配だ。
何の気配だろう。
それを言葉にするのは、難しい。
アイヌの言葉でいえば、「カムイ(神)」というのが、もっともしっくりくる。
この「カムイ」というのは、私たちが知っている、あるいは認知している「神」とは違う。
生活をともにしている神といえばいいだろうか。
あるいは、生活する神。
掛川源一郎の写真には、いつでもこの「カムイ」の気配で満ちている。
それゆえ、どの写真も優しい。
その優しさは、ウェットなものではなく、きわめて乾いている。
人間も自然もつつむカムイのその優しさに、魅かれてならない。
この写真集には、文化人類学者の山口昌男や写真家の吉田ルイ子などそうそうたる人が寄稿しているが、そのなかに工藤正廣の名があった。工藤正廣氏は、ここでも紹介した『パステルナール詩集』の翻訳者である。全く別のジャンルの人の名を発見することは、なにやらうれしくなる。
posted by NIHEI at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | アイヌ

2008年08月06日

『レラコラチ 風のように 森竹竹市遺稿集』(えぞや)/1977年


『レラコラチ 風のように 森竹竹市遺稿集』
226.jpg
著者名:森竹竹市
出版社:えぞや
出版年:1977


アイヌ民族を代表する歌人三人。
すなわち、バチェラー八重子、違星北斗、そして森竹竹市。
森竹竹市は、戦時中ということもあって、他の二人に較べてその表現が過激ではなく、それ故評価が低いという側面が伝えられる。
はたして、そうだろうか?
個人的には、最も普遍性を備え、クオリティの高い作品を残したのが森竹竹市だと感じる。
弱いのではなく、深い。
激しくないのではなく、遠い時間まで見通せたまなざし。
長いときを経て、それは歴然としたように思う。
たしかに、「運動」と「表現」、この関係性は難しい。
それは、今も昔も変わらない。
「運動」に対して直接的に貢献できるものを、運動家たちは喜ぶ。
だが、その直接性が強ければ強いほど、その表現、作品の命は短い。
皮肉な関係性だが、互いにもっと広い視野と、もっと長い時間的スパンを共有することによって、それは解決できるのではないか。
非常に困難な作業ではあるが、いまの短絡的な世界のなかで、そういった視点は、もっとも必要であり、求められているものではないか。
それにしても、アイヌの表現者たちのものは、なぜこんなにも「遺稿集」ばかりなのか。
やりきれなさを感じる。
posted by NIHEI at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | アイヌ
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