2007年10月06日

『消尽したもの』ジル・ドゥルーズ サミュエル・ベケット(白水社)/2006年


消尽したもの
著者名:ジル・ドゥルーズ(著)
     サミュエル・ベケット(著)
     宇野邦一(訳)
出版社:白水社
出版年:1994.02
ISBN :9784560019757


ベケットの名前を耳にすることが多くなった。
ベケット生誕100年のためだ。
舞台に関心をもっている者なら、一度はベケットの『ゴドーを待ちながら』を読むなり、観るなり、あるいは話を聞かされたりしていることだろう。
僕もその一人だ。だが、どうもピンとこなかった。「ゴドー」とは何か。そんな話は、あまり面白くない。
印象に残っているのは、ノーマン・メイラーが『ゴドーを待ちながら』のことを、「インポテンツの芝居」と評したことぐらいだろうか。あまりにノーノン・メイラー的、あまりにアメリカ的な評だが。
思えば、意味を探ることに終始するなかでのベケット評にうんざりしていたのかもしれない。そのために、ベケットの作品を集中して読むということはなかった。
だが、本書にドゥルーズの『消尽したもの』とともに納められているベケットの作品には驚かされた。ベケット最後の作品群。TV作品。
ドゥルーズの「消尽したもの」という「言葉」で読み解かれるベケット像は、新鮮だった。
(ただ、ドゥルーズの場合、ひとつの論旨が証明されると、すべての事柄をそのなかに強引に流しこむ印象が強い。全ての事柄が彼の論旨のために存在しているかのごとく。フェリックス・ガタリとの共著『カフカ マイナー文学のために』(法政大学出版局 1985年)を読み返してみたが、その印象は同じだった)
そして、実際のベケットのテクストは、それにもまさる新鮮さだった。あるいは、懐かしさ。
(僕が書く意味不明といわれるテクストによく似ている。ベケットはその対極にいるとばかり思っていた。これは、僕の先入観と怠慢の結果だ)
自己、他者、言葉、世界、夢、境界線、それらがぎりぎりのところで、かつシンプルに描かれている。まるでジャコメッティの彫刻を見るようだ。
これは、ただ事ではない。急いでベケットの散文作品を集中的に読む。
初期の代表作から。
『モロイ』白水社 1970年
『マロウンは死ぬ』白水社 1969年
晩年の散文作品集も並行するように読む。
『伴侶』書肆山田 1990年
『見ちがい 言いちがい』書肆山田 1991年
『いざ彼方へ』書肆山田 1999年
『また終わるために』書肆山田 1997年
面白い。
『ゴドーを待ちながら』の熱狂的な受け入れられ方を、ベケット自身は嫌っていたという。それは、この一貫して書かれた散文作品群を読むと理解できる。『ゴドーを待ちながら』は、まったく別の読み解き方をしなければならない。
しばらく、ベケットを読み続けなければならない。

2007年10月04日

『ショスタコーヴィッチ』井上頼豊(音楽之友社)/1957年


『ショスタコーヴィッチ』
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著者名:井上頼豊(著)
出版社:音楽之友社
出版年:1957


『ショスタコーヴィチの証言』をすでに読んでしまった者たちにとっては、なんとも興味深く、教訓的な一書。
1957年といえば、ショスタコーヴィチも存命の頃。もちろん、ソ連も冷戦のさなか。その頃のソ連共産党が、日本の知識人に対してどれほどの影響力があったのか。
本書は、『交響曲第10番』までについて書かれている。
情報源は、統制が厳しいソ連が発表しているものばかりだ。そのために、今では信じがたいことだが、ジダーノフ批判も肯定的に書かれている。ジダーノフの意見そのままに、著者はショスタコーヴィチに反省を促している。
どうも、この著者は権威主義的な気がしてならない。どれほどソ連共産党のプロパガンダが強く影響していようが、実際にショスタコーヴィチの音楽は聞いているのだから、違和感を覚えないのはその人の音楽的見識を疑わざるを得ない。
リアルタイムではそう簡単に判断できないなどという言い逃れは通用しない。実際、こうして権力におもねって書かれた書物は残ってしまうのだから。
日本の戦前戦中を思い起こす。戦争協力的なものは、戦後どうなったか。
改めて、ものを書く人間は心しなければならない。現状にだけおもねった者は、必ず汚点を残す。そればかりでなく、愚かな歴史を繰り返すことを助長する。芸術にたずさわる者の役割は、本来、愚かな歴史を繰り返さないことにあるのだから。

この本の装丁は、舞台美術家として知られる朝倉摂が担当している。
posted by NIHEI at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽/ロシア・東欧
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