| 平壌からの告発 |
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著者名:伊藤孝司 出版社:風媒社 出版年:2001.07 ISBN :4833154102 |
フォト・ジャーナリスト伊藤孝司さんによる、元日本軍従軍慰安婦の人たちを追った衝撃の証言集である。
歴史の論理の中で消されてしまうひとりひとりの犠牲者の証言。おそらくフォト・ジャーナリズムの世界において、そこにスポットライトをあてることは今最も重要な作業に違いない。それは、膨大な時間と労力を要するにもかかわらず、マスコミから倦厭されるような仕事だ。だからこそ、それは重要な仕事であり、貴重な作品となる。
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「一日たつと彼女は死にかかっていたが、「言いなりになるくらいなら死んだほうがましだ」と言った。それを聞いた兵隊たちは彼女をなぶり殺しにし、首・腕・足・胴とバラバラに切断したのである」
「そして、妊娠三ヵ月の時、子宮ごと胎児を取り出す手術を工場内の病院で受けさせられたのである」
「兵隊たちは殺した女性の頭を釜で煮始めた。そして鄭さんたちを木刀で叩いて、無理やりその汁を飲ませたのである」
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これはほんの一部である。証言者たちに深く刻まれ、いまだ消えることのない身体への、そして心への傷。
これらの証言を疑うのは勝手だ。だが、なぜ疑おうとするのか。疑って何を守ろうとしているのか。
身体に刻みこまれた忌まわしい傷の記憶。その前で、その行為を肯定するどんな理屈が見つかるのだろう。
異常な戦時下では仕方ないという理由は通用しない。なぜなら、これらの行為は、逼迫した戦争の最前線のことでのことではないのだから。
でも、僕たちは戦争の異常な状況のなかでは、人間は何をするかわからないことをもう知っている。知っているのだったら、繰り返してはならない。繰り返すのは、やはり知らないからだ。本当に知ろうとしていないからだ。
仕方がないという答えは、未来もまた仕方がないことが起こることを是認してしまうことになる。それは、学ばないということだ。
でも、僕たちはどこかで殺す側で想像していないだろうか。殺してしまっても仕方ない状況になったらやはり殺してしまうだろうと。
逆を想像してみよう。相手が殺しても仕方ない状況にあったとき、自分もまた殺されても仕方ないと、想像できるだろうか。
殺す側の想像力だけしかもたない者に、学ぶ能力はない。
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手元にある伊藤孝司さんの従軍慰安婦関係の書籍は下記の通り。
*『証言 従軍慰安婦 女子勤労挺身隊 強制連行された朝鮮人女性たち』(風媒社)1992年
*『破られた沈黙 アジアの「従軍慰安婦」たち』(風媒社)1993年
*風媒社『続平壌からの告発』(風媒社)2002年